毎日書道会とは

毎日書道会小史 -書壇を結集してスタート-

毎日書道展は、昭和 23 年( 1948 年) 8 月東京・上野の東京都美術館で開かれた「全日本書道展」がその始まりであり、翌昭和 24 年 8 月には「日本総合書芸展」として開催された。翌年は 1 回休み、 3 回目の昭和 26年( 1951 年) 8 月開かれた展覧会から「毎日書道展」と改称され、現在に至っている。(文中敬称略)

【全日本書道展】
第2次世界大戦は、日本の文化・芸術も戦時体制に組み込んだ。書道界も例外ではなく、昭和18年(1943年)泰東書道会、東方書道会、興亜書道連盟、三楽書道会などの団体が「書道報国会」の名のもとに統一された。
昭和20年(1945年)8月15日の終戦で、「書道界」は雲散霧消したが、その中から静かだが復興の歩みが始まっていた。豊道春海、田中真洲、手島右卿、飯島春敬4氏が語り合い書道界の再起を期し、尾上柴舟、香川峰雲、金子鷗亭、大澤雅休各氏らも加わって、昭和21年5月に日本書道美術院が設立された。そして早くも同年8月毎日新聞社の後援で、東京・上野の東京都美術館で第1回展が開かれた。
一方、日展に書部門を新設する運動も進められ、芸術院会員の豊道春海をはじめ、尾上柴舟、手島右卿らの働きかけで、昭和23年(1948年)に日展に「5科」が新設されることになった。
書が日展の一部門に加えられたものの、民間、ことにマスコミの世界にも書を美術として認識してもらう必要があり、新聞社主催の書道展の開催を望む声も強くなった。昭和22年の第2回日本書道美術院展の準備を進めている際、後援の毎日新聞社事業部との間で、毎日新聞社主催で書道展を開くことが話し合われた。飯島は日書展を通じて同社事業部と面識があり、金子は戦前から毎日新聞社書道部の講師をしており、社内に知己も多かった。両氏が中心となり新聞社との話し合いが進められ、この年、夏も終わりになって毎日新聞社主催の書道展を開催することが決まった。会場は、日書美が予約している翌年分の東京都美術館を提供した。
「全日本書道展」は昭和23年8月14日から20日まで開かれた。尾上柴舟、豊道春海、山口蘭渓3氏を顧問に、飯島春敬、上田桑鳩、金子鷗亭、辻本史邑、手島右卿、柳田泰雲の6氏が運営委員を務めた。部門は漢字、かな、篆刻の3部門で、審査員総数39人。公募総数638点、入選率83%であった。
付記しておきたいのは、国立博物館の後援で「平安朝名品展」が併催され、御物「寛平御時后宮歌会・伝宗尊親王筆」、国宝「古詩残簡(本能寺切)伝行成筆」、同「古今集序(伝俊頼筆本)」、同「宝簡集(西行書状)」など25点が展覧されたことである。

【日本総合書芸展】
「全日本書道展」が成功裏に終わったことから、毎日新聞社は引き続き書道展を主催することになり、昭和24年(1949年)8月、東京都美術館で「日本総合書芸展」が開かれた。参加団体は日本書道美術院、書道芸術院、日本書芸院、書壇院はじめ各地域の団体も参加、広がりを見せた。運営委員は前年と同じで、実務は山口蘭渓事務局長、飯島春敬庶務部長の体制だった。
部門は前回の「漢字」「かな」「篆刻」に、新たに「新書芸」と「硬筆」が加わり5部門になった。昭和23年に日展に「5科(書)」が新設されたが、部門は長い間、漢字、かな、篆刻の3部だった。在野の書道展として、現代の新しい表現を求めていく毎日展の姿勢が、早くも現れた と言えるだろう。
ところが展覧会が閉幕してから、思わぬ難問が持ち上がった。事務局から新聞社に対して事業報告が出来なくなったのである。当時、食糧事情も悪く、美術館で炊き出しをした。闇米を買っての炊き出しだが、とても領収書はとれない。庶務部長の飯島は領収書のない経費を認めない。事務局員の毎日新聞社員はついに会計報告が出来ず、昭和25年の展覧会は中止になった。
「経理上の整理といっても、当時はヤミの時代で、すべてがヤミでなければ手に入らなかったのである。文房具も、食糧もすべてがヤミだったので、ヤミである限り、例えば米の領収書も手に入らない。そんな時代に領収書つきの経理など出来っこない」(『毎日書道展30年の歩み』の「想い出ばなし」での飯島春敬の文から)。
「創設時、まだ出品者の立場ではあったが、会場に住居が近いということから、事務局の一員として、出品者名鑑編集の仕事をお手伝いすることとなった。この時の最も鮮明な思い出は、事務局員の昼食は、コッペパン1個であったことだ。お米が配給制度に統制されている以上、米飯を食堂で給することは、お米持参でなければならなかったのである」(『毎日書道展40年の歩み』の「思い出」での竹田悦堂の文から)。そういう時代だったのである。ちなみに第1回展の公募出品料は、縦1丈2尺まで1点100円であった。