毎日書道会とは

毎日書道会小史 -財団法人の発足と新生毎日書道展-

【財団法人毎日書道会が発足】
毎日書道展の拡大に伴い、展覧会を、より機能的に運営するため、毎日新聞社から独立した新組織・財団法人を設立することは、新聞社と書壇の一致した構想になっていた。第30回毎日展開催中の昭和53年(1978年)7月、東京都内で財団毎日書道展設立準備委員会が開かれ、「財団毎日書道展」設立が決定された。展覧会の開催権を毎日新聞社から引き継ぐと同時に、新聞社と密接に協力し、展覧会のほかにも書道文化の向上を図ることになった。
同年9月1日、「財団」事務局は毎日新聞東京本社に開設され、第31、32回展が開催された。しかし「財団」はあくまで任意団体であり、正規の財団法人設立に向けて準備が進められた。
正規の財団法人の設立は昭和56年(1981年)1月23日付で文部大臣から認可された。これにより「財団法人毎日書道会」が発足、「財団毎日書道展」の一切の権利・義務を引き継いだ。初代理事長には平岡敏男毎日新聞社社長(のち会長)が就任、新聞社と財団の間で「毎日書道展の開催についての業務提携」が結ばれた。この協約に基づいて毎日書道展は、毎日新聞社と毎日書道会との共催となり、第33回展から現在まで続いている。

【日本書展と現代書展】
昭和56年、初の毎日新聞社と毎日書道会共催による第33回毎日書道展が開催されたが、波乱含みになった。 発展を続けてきた毎日展は、各部門によって入賞による会員(現在の審査会員)昇格に年齢差が出たり、作風の相違による芸術観・評価の差異などから不満がくすぶっていた。ことにいわゆる伝統派から、毎日展を2つに分割開催する主張が出て、それぞれ持ち味の違いも発揮する2展制で運営することになった。同時にそれまでの「1部」…「7部」の呼称は、「漢字部」…「前衛書部」に変更された。
分割された2展は「毎日日本書展」(漢字部、かな部、篆刻部)と「毎日現代書展」(近代詩文書部、少字数書部、刻字部、前衛書)になり、日程も前期、後期に分かれて東京都美術館で開かれた。運営も全く別個で、賞の名称も従来の「大賞」「準大賞」「毎日賞」「秀作賞」を変更し、毎日日本書展は「日本書展賞」「特選」「秀逸」、毎日現代書展は「会員賞」「毎日賞」「秀作賞」と別々になった。
他にも不祥事が起きた。関西を中心とした日本かな書道会(宮本竹逕理事長)が、毎日書道展への不出品を決め、かな作品が表具店に留め置かれる事態となり、財団理事でもある宮本氏は、理事を解任された。第33回毎日展の審査員総会で、平岡敏男理事長は「今度の展覧会から毎日書道展は、日本書展と現代書展の2つの流れによって構成される書の展覧会として、新しいスタートを切りました。書芸術の主張の違い、流れの差異のあるものをひとつの枠に入れておくよりも、2つの枠に分けて、それぞれの独自性、主体性を存分に発揮しよう、それによってお互いが切磋琢磨しながら、日本における書道の興隆、書芸術の高揚をはかろうというのがその趣旨であり、新しい理念を掲げて、その第一歩を跨み出したわけであります」と挨拶した。
この事件でかな部が前年より約2,000点減となり、公募点数は日本書展7,810点、現代書展8,624点で、合計16,434点だった。しかし翌年の第34回展では、公募点数は日本書展11,406点、現代書展8,823点、合計20,229点と、初めて2万点台にのせた。
2展制での運営は3回しか続かなかったが、その最後の昭和58年(1983年)第35回毎日展では、公募作品は21,146点になった。部門別の作品数は次のようだった。
漢字部 6,092
かな部 5,118
篆刻部 403
近代詩文書部  4,668
少字数書部 1,713
刻字部 948
前衛書部 2,204

【読売展へ移籍問題】
一応順調に推移するかに見えた第35回展東京展も終わった夏のころから、予期せぬ動きが出始めた。読売新聞社が7年間開催してきた公募展「読売書道展」を解消、「読売日本書法展」(現「読売書法展」)を開催することになり、毎日書道展の有力役員書家に出品を求めてきたのである。
(財)毎日書道会の理事である青山杉雨、村上三島両氏も読売日本書法展と関わりが深いことも分かり、毎日書道会内部も混乱した。このため10月には、読売展の選考委員に名を連ねている(財)毎日書道会の役職者に対し、読売展の選考委員を辞退するか、あるいは毎日書道会の役職を辞退するかの、いずれかをとるようお願いした。
第33回展で日本書展、現代書展に2分するもとになったわだかまり、東西の反目もあったろうし、いわゆる伝統書と現代書の書作家の間で、書の表現法に対する芸術観の違いも根底にはあった。昭和59年(1984年)3月初旬、第36回展運営委員会が開かれる直前までに、会派、グループごとの連名辞表が相次ぎ、毎日書道展退会者は同人会員、会員683人に及び、殆どが読売書法会へ移籍した。 退会者は日本書展の、漢字、かな、篆刻作家が多かった。

【新生毎日書道展のスタート】
昭和59年3月5、6両日開かれた第36回展運営委員会で、平岡毎日書道会理事長は「本日の運営委員会は、これからの新しい毎日書道展を拓く大事なワンステップになります。第3回の毎日書道展が、“日本書壇史の歴史的な展覧会ということができる”と意義付けられていたのと同様に、今年の毎日書道展は新生、革新に踏み出す歴史的な展覧会になるでしょう。その為には、その内容を一層充実し歴史の評価に堪えられるようなものにする必要があります」と挨拶した。新生毎日展は金子鷗亭理事が実行委員長を務め、東地滄厓総務部長、青木香流審査部長、種谷扇舟陳列部長の体制で取り組んだ。
再建の力点は、漢字、かな部の補強に注がれ、新規団体の加盟、毎日書道展内部での移籍などで陣容が整えられた。会派が増えたことで、出品作品の内容は多彩になり、毎日展35回の歴史と底力が遺憾なく発揮された。公募点数は、かな部がかなり減ったが、合計18,544点を維持した。
大量移籍は痛手ではあったが、半面では機構・運営が一本化し機能的になった。毎日書道展の役員書家は審査会員、会員とすっきりし、入賞の表彰も、会員を対象にしたグランプリ「会員賞」と、公募作品を対象にした「毎日賞」「秀作賞」に一本化された。
東京展の展示は「前期展」「後期展」方式に戻り、巡回本展は、中国展は中止されたが、「関西展」(京都市)「九州展」(福岡市)「東海展」(名古屋市)「北海道展」(札幌市)が開かれた。また企画委員会(青木香流委員長、8人)も設置され、展覧会の企画、運営などについて理事会、運営委員会に提言するようになった。
第37回毎日展の総務部長を務めた中井史朗は、当時のことを「毎日書道展は第35回展までがひと区切りである。 第36回展は新生第1回展といってよい。それは読売書法展へ移行した人たちとの訣別である。訣別という言葉が妥当でなければ、書道界発展のための分派とでもいうべきか。新生毎日書道展の2回目(第37回展)の総務部長に内定していた青木香流氏の突然の死去に伴い、その大役が私のところに回ってきた。2万点に及ぶ出品作品の処理、漢字部の再編成などなど難事山積、1か月を無我夢中で過ごした。幾多の人のご協力によって大任を果たした」と回顧している(『毎日書道展40年の歩み』の「思い出」から)。